2013年06月04日

オルトンビーナ芸術監督 講演会の記録

フェニーチェ歌劇場日本公演2013 講演会の記録
フォルトゥナート・オルトンビーナ芸術監督

Conferenza
Fortunato Ortombina
Direttore Artistico del Teatro La Fenice di Venezia


2013年4月15日(月) 17時30分
イタリア文化会館 アニェッリホール

Lunedì 15 aprile 2013, ore 17:30
Istituto Italiano di Cultura, Auditorium Umberto Agnelli


主催:
イタリア文化会館 Istituto Italiano di Cultura di Tokyo
NPO日本ヴェルディ協会 Associazione Verdi Japan

協力:
シティカードジャパン株式会社 Citi Cards Japan, Inc.
フェニーチェ劇場友の会 Amici della Fenice in Giappone

後援: 朝日新聞社 Asahi Shimbun






フォルトゥナート・オルトンビーナ氏経歴:
1960年マントヴァ生まれ。パルマのA.ボイト音楽院でトロンボーン、対位法などを、またパルマ大学で文学を学ぶ。1980年から1997年1月までパルマ王立歌劇場の合唱指揮の助手を務める。
その間、音楽院で作曲と音楽学の勉強を続け、1987年にナポレオン占領下のイタリアの歌劇場のテーマで論文を書き卒業。その後、フィリップ・ゴセットによるヴェルディ作品の批判校訂版についての講座を受講。1988年から1990年までフェスティバル・ヴェルディで、ヴェルディの時代のパルマでの音楽文化に関しての研究、出版に携わる。その後、ミュンヘンのリコルディ社とバイロイト大学の企画によるジャコモ・マイアベーアの作品集出版プロジェクトに参画する。
1990年から1998年までヴェルディ研究所にて、ヴェルディ自筆の文書の研究や、G.リコルディ、S.カンマラーノ、A.ソンマとの書簡集の出版に携わる。
1997年2月から1998年8月まで、トリノ王立歌劇場芸術監督助手を務めた後、ナポリのサンカルロ劇場へ。2001年夏より2003年秋までフェニーチェ歌劇場のプログラミング・ディレクター。1996年の火災の後、2003年12月に再オープンした同劇場で、1週間にわたり開催された記念コンサートでもプログラミングに携わる。2003年9月にミラノ、スカラ座の制作部へ移る。2007年1月にフェニーチェ歌劇場の芸術監督に就任し、現在にいたる。





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オルトンビーナ芸術監督(東京のイタリア文化会館、アニェッリ・ホールにて)
写真提供:日本ヴェルディ協会理事長 槇忠志氏(2点とも)










演題「ジュゼッペ・ヴェルディ:ムーア人、ヴェネツィア、世界」


オルトンビーナ芸術監督:

皆さん、今日は。ヴェルディが生まれたイタリアから、そしてフェニーチェ歌劇場からも遠い距離にあるこの地で今日お話させていただくのは私にとって非常に名誉なことです。フェニーチェ歌劇場はヴェルディが愛した劇場でした。その理由は後で申し上げます。今日はヴェルディとフェニーチェ歌劇場の関係についてお話しするわけですが、まさにヴェルディの持っていた野心が、世界に芸術を発信していきたいという事でした。ヴェルディは自分の作品が上演される劇場での成功だけを考えていたわけではありませんでした。彼は世界が一つになり、平和が訪れることを願っており、男と女、家族、そして世界のあらゆる国が繁栄し人類の生きる条件が改良されることを常に願っていたのです。

実際、イタリアと日本の地理的距離は遠いにもかかわらず、音楽がそれを大変近いものにしてくれるのです。時代が変わり、今では昔より連絡を取りやすくなってはいますが、私の思うにヴェルディは、ヴェルイディだけでなく例えばモーツァルトやバッハもそうだったでしょうが、何百年もの昔でも、彼らは自分のメッセージが何世紀もの時を超えて人々に届くと信じていたのです。

ですからまずは、私にこの場でヴェルディについて話す機会を与えてくれたフェニーチェ歌劇場、そしてイタリア文化会館、今日お集まりの皆さん、そしてジュゼッペ・ヴェルディに感謝したいと思います。



ではこれから《オテロ》の話をいたします。《オテロ》はヴェルディの最後から二つ目の作品です。最後はご存知のように《ファルスタッフ》でした。《オテロ》は長年の後でヴェルディがイタリアの歌劇場のために書いたオペラです。ヴェルディがその前にイタリアの歌劇場のために書いたオペラは《仮面舞踏会》でした。《オテロ》の30年前のことになります。ヴェルディが常にイタリアから遠い観客にも届くようにとの願いを持っていたと申し上げました通り、この30年間、かれのオペラ作品はイタリア以外の国で発表されてきました。《アイーダ》はカイロ初演です。勿論その後でミラノとパリで上演されましたが初演はカイロです。《ドン・カルロス》はパリ初演ですし、パリ初演のオペラとしては他に《イェルサレム》、《シチリアの晩鐘》などがあります。今年一月に私どもの劇場では《群盗》を上演し大変良い評価を得ました。このオペラは上演が稀でフェニーチェ歌劇場で最後に上演されたのは150年前のことです。大変モダンな作品ですが、これもヴェルディが初期の頃、ロンドンのキングス・シアターに1847年に書いたものです。これはヴェルディが若い頃は唯一の可能性でした。イタリア統一前はイタリア各地では小国がそれぞれが歌劇場をかかえていただけだったので、1840年代、1850年代にイタリアの作曲家が国際的な活躍をしたければ、パリかロンドンで作品を初演するしかなかったのです。特にパリですね。

そういうわけで《ドン・カルロス》はパリで生まれましたし、《アイーダ》もパリで上演されました。《オテロ》もパリで上演されることになります。そのことは後でまた触れますが、もう一つ外国のために書かれた重要な作品は《運命の力》、サンクトペテルブルグのために書かれました。ウィーンも大事な都市ですが、ヴェルディはウィーンでは《ナブッコ》を1840年代に上演しています。今日はこの場に日本ヴェルディ協会の《ナブッコ》さんにもお越し頂いていますが、ちなみに、ヴェルディの《ナブッコ》ウィーン初演を手がけたのはドニゼッティでした。当時はミラノもヴェネツィアもオーストリアの支配下でしたから。

このようにヨーロッパの各大都市にヴェルディは到達していたわけです。この活動は《オテロ》の前まで続きました。《オテロ》においては、ヴェルディがその作品で世界に到達しようとしたという事実は同じですが、イタリアの歌劇場に向けて書いた作品です。これは大きな挑戦であり、また大きな信頼でもありました。これはイタリア国家統一がなった後でヴェルディが初めてイタリアのために書いたオペラであり、彼の希望が具現化された瞬間でもあったわけです。おそらく《オテロ》はヴェルディのオペラの中でも最も長い構想期間を持った作品です。《アイーダ》から《オテロ》の初演まで16年が経過しています。しかもヴェルディがこのオペラの最初のアイディアを得たのはその11年前ですから大変長い年月をかけています。そしてもし1883年にワーグナーが亡くならなかったら、おそらくヴェルディはこの作品を書くのにもっと長い時間を費やしたでしょう。オペラはフェニーチェ歌劇場ではなくスカラ座で初演されました。しかしこのオペラにはヴェネツィアに対するオマージュがたくさん含まれており、それには後で触れますが、物語もヴェネツィア支配下にあったキプロス島が舞台となっております。これはヴェルディではなく原作を書いたシェークスピアが決めたわけですが、《オテロ》という題材もオペラの観客には何十年か前のジョアキーノ・ロッシーニの《オテロ》を通じてすでに良く知られたものだったわけです。



ヴェルディの作品の創造に関しては少なくとも大きく二つの時期に分ける事が多いのですが、若い頃の苦役の時代、「ガレー船の時代」と呼ばれることもある時期は、依頼された作品の作曲に追われた強制労働的な時代だったわけですが、それは1851年のヴェネツィアにおける《リゴレット》初演で終わりを告げました。このオペラによってヴェルディの新しい時代がスタートします。《リゴレット》はロマン派三部作と呼ばれた《リゴレット》《ラ・トラヴィアータ》《イル・トロヴァトーレ》のうちの第一作目です。この時期はヴェルディが、イタリア統一はほぼ成し遂げられ、ヴェネツィアはオーストリア支配下にあったにせよそれも段々に撤退していた、ということで、《リゴレット》以降のヴェルディ作品にはこれからのイタリア人のあり方について考えよう、という教育的な意図が含まれていると私は思います。シェークスピアはヴェルディの、この人間性に対する研究の大きな助けになっています。このようにヴェルディのその後の作品には大なり小なり生まれたばかりの国家に起こりうる緊張、姿勢、危険などが描かれています。

例えば、《オテロ》の前には《シモン・ボッカネグラ》の改訂版の作曲がありましたが、この作品の場合は、今後、イタリアを統治していく政府の人々は皆シモン・ボッカネグラのようであって欲しいという希望があったと思います。《オテロ》ではヴェルディの人間の魂に対する分析、研究、探索の手法はより洗練され、オテロが彼の持つ愛と権力への羨望の犠牲となり人間性が破壊してしまうという芝居に表現されます。登場人物の描き方もまさに匠の技で、今日、この場にヤーゴ役のルーチョ・ガッロさんがご出席下さっていますが、ヤーゴを目の前にして《オテロ》を語るというのも特に感動を覚えることです。まさにヤーゴはオテロの周りに張り巡らされた悪魔的な計略を生み出した人物であり、その仕事は静かに行われますが、ヴェルディによって書かれたヤーゴの音楽や演技は素晴らしくリアリスティックに描かれており、この《オテロ》に描かれたような権力や嫉妬のドラマは今日にもいくらでも起こりうるものだと思わせるのです。ヴェルディが人間を描くという目的のためにこのオペラを書いた時に、もっとも工夫を重ね苦心して創り出したのはこの一番複雑な面を持つヤーゴ役だと思うのです。

ヤーゴを語るのに一つ場面を選ぶとすると、例えばオペラの冒頭で嵐が終わった時にコントラバスが非常に低いとても静かな音を奏でます。最初に嵐の中の出来事を描写する歌の中にもヤーゴは登場しますが、それが終わってまだヤーゴが自分の意見を述べる前からあの音はヤーゴを表します。「ロデリーゴ、何を考えているんだ?」「入水自殺さ」「女に惚れて溺死するなんて馬鹿もいいところだ」というロデリーゴとの会話の前にあるあのコントラバスの音は、何というのでしょうか、彼が投げかけた網のようなのです。ヤーゴは全ての人の全てを知っていて、全てをコントロールしている。それはヴェルディが言っているように一見穏やかな風貌のヤーゴだからこそ一層恐ろしいのです。

非常に有名な原作と比べますと、ヴェルディとボーイトはシェークスピアが書いたヴェネツィアの場面を丸々カットしています。これはある種ヴェルディとボーイトも意識的にやっているのであり、なぜなら19世紀イタリアではオペラは小説と比べて人気の点で小説を遙かに凌駕するケースが多かったのですね。この現象はフランスでも問題になり、ヴィクトル・ユゴーや他の作家たちはオペラの成功を邪魔にしていました。ボーマルシェの原作よりロッシーニやモーツァルトの《セビリャの理髪師》や《フィガロの結婚》はずっと広くよく知られていた。ですからヴェルディは彼の作品についても同じことが起こると予想していたはずです。教育的な視点から見ると、重要な主人公が全員死んではと思いヤーゴを最後に殺さなかったのかもしれません。




次にヴェネツィアの話をしましょう。フェニーチェ歌劇場はヴェルディがミラノ・スカラ座の次に多くのオペラを書いた劇場です。一つ少ないだけでほとんど同じ数のオペラを書いています。一方、ヴェルディが書いたオペラの舞台で一番多いのはヴェネツィアです。ヴェネツィアの建国の時期を描いた《アッティラ》、そしてフェニーチェ歌劇場のために書かれたのではありませんがヴェネツィアが舞台の《二人のフォスカリ》、そしてヴェネツィアの統治下の時代にあった近郊の海、エーゲ海の島々で起こった物語《海賊》、そして《オテロ》です。そしてジェノヴァの話ですがヴェネツィアの話題も出てくるものとしては先ほどの《シモン・ボッカネグラ》があります。詩人フランチェスコ・ペトラルカからジェノヴァの議会あてにジェノヴァ、ヴェネツィア両国間の和平を願う手紙がくるというシーンを改訂の時に書き足しているのです。ちなみに《シモン・ボッカネグラ》はフェニーチェ歌劇場も過去の来日公演で上演していますが、台本を見ていただくとその中で「Ecco un messaggio del romito di Sorga ソルガの隠者からのメッセージだ」という部分があり、これは当時ペトラルカが住んでいた土地の名前です。ペトラルカはご存知のようにダンテと並ぶ14世紀の偉大なる詩人でした。

ヴェルディとフェニーチェ歌劇場の関係は60年間にも渡りました。最初に歌劇場とヴェルディの間に手紙が交わされた時から最後まで、ということです。特に最初にフェニーチェ歌劇場がヴェルディに書くことを依頼したのは1844年に初演された《エルナーニ》でした。しかしその前にすでにヴェルディは《ナブッコ》のフェニーチェ歌劇場上演のためにヴェネツィアを訪れており、その折にフェネーナのアリアを新しく一曲書き足しています。



《エルナーニ》はヴェルディがキャリアの初めにスカラ座の為に書いた《オベルト、サン・ボニファーチョ伯爵》《一日だけの王様》《ナブッコ》《ロンバルディアの十字軍》等の後にヴェルディが始めて他の歌劇場のために書いたオペラであり、この上演は大成功を収めました。44年にヴェルディは31歳とまだ若く、とても珍しいヴェルディが泣いたという事実の証言が残っています。それは《エルナーニ》の最終公演にフェニーチェ歌劇場のオーケストラの団員たちがヴェルディをフェニーチェから彼が泊まっていた劇場の近くにあるホテル・エウローパまで凱旋将軍のように肩に担いで行列になって送っていったのだそうです。これが《エルナーニ》の大成功を物語っており、ホテルに着いたヴェルディは義父バレッツィに「泣いてしまって手紙を書き進められません」、とヴェネツィア人の歓迎について書いているものです。ヴェルディとフェニーチェの長い関係の中の一こまです。ヴェルディはこの時に、ヴェネツィアが自分の心の中に重要な位置を占める都市になる、と思ったのです。それは恐らく当時のヴェネツィアの社会が、オーストリアの支配下にあったとはいえ、ミラノよりもずっとオープンであったことと関係あるでしょう。この翌年、1845年に《ジョヴァンナ・ダルコ》上演のためにスカラ座に戻りますが、このオペラはスカラ座の観客からあまり歓迎されませんでした。ヴェルディはその時にスカラ座の観客が自分に対して敵意がある、と捉えたのです。 オーストリアの支配下にあったため、仕事の仕方が大量生産的になっていたため、ヴェルディの望むクオリティーで作品を書いて上演することを妨げていたからです。ヴェルディはこの《ジョヴァンナ・ダルコ》の苦い経験のあと、イタリア語の表現で言えば「扉を叩きつけて」スカラ座を去るのです。その時にヴェルディは「もう生涯二度とスカラ座には足を踏み入れない」と誓いましたそれは彼が若かった為もありましたので、実際はヴェルディのこの誓いは破られることになりますが、しかしヴェルディが再びスカラ座に足を踏み入れるまでには実に25年もの年月を要したのです。

そしてこの25年のうち最初の10年間にフェニーチェ歌劇場は唯一の、そして素晴らしい位置を占めました。ヴェルディはヴェネツィアの様々な面を愛しました。特に好きだったのは開放的であるということで、イタリアの他の都市、特にスカラ座では不可能だったようなプロジェクトも受け入れて貰える土壌があった。ヴェルディはヴェネツィア人、特に劇場を取り巻く社会が彼に勇気を与えてくれると感じていたのです。おそらくそのために彼は二つの最も重要なオペラ、《リゴレット》と《ラ・トラヴィアータ》をこの劇場で書くことが出来たのでしょう。今では《リゴレット》はスカラ座の歴史上でもっとも上演回数が多い演目だそうです。しかしミラノでは《リゴレット》や《ラ・トラヴィアータ》の初演は絶対に不可能だったでしょう。題材も受け入れられなかったでしょうし、ヴェルディの望んだようなモダンなアプローチを受け入れることは開かれた考えを持つ劇場ではないと無理だったと思います。それは劇場と、劇場が所属する都市の性格によるものなのです。




1844年の《エルナーニ》、46年の《アッティラ》、これは紀元数世紀後のまさにヴェネツィアの建国に関わるストーリーですが、その後に《リゴレット》《ラ・トラヴィアータ》、そしてトリエステで初演された後、重要なヴェネツィア版が作られた《スティッフェーリオ》、そしてヴェルディがヴェネツィアのために書いた最後のオペラ《シモン・ボッカネグラ》、これもまた開かれた劇場としてのフェニーチェ歌劇場があったからこその作品だと思います。《シモン・ボッカネグラ》はフェニーチェで初演された後、人気があった時期を経て一時忘れられてしまいますが、30年後にボーイトに勧められて改訂版を作ります。そこで先ほど申し上げたフランチェスコ・ペトラルカのヴェネツィアからの手紙が届くシーンを追加したわけですが、この改作のおかげで作品は劇作としてより充実しスペクタクルな面を強調し、作品としてより普遍的な価値を持つに至ったのです。反対に言えば、ヴェネツィア初演版はある意味書法的にかなり実験的でモダン過ぎた、という事なのです。このような作品をヴェルディが書くことができたのはまさにヴェネツィアという土地柄のおかげなのです。

《シモン・ボッカネグラ》の改訂版は1881年にミラノで初演されますが、その時のシモン役を歌ったのがフランス人歌手ヴィクトル・モレルでした。そしてその後で《オテロ》のヤーゴ役は彼に合わせて書かれました。ヤーゴ役が重要なものになったのはモレルを得たからであり、実際このオペラは構想中に《ヤーゴ》と呼ばれていた時期がある位です。最終的にはやはりヴェルディはシェイクスピアのオリジナル題名をつけたわけですが。ヴィクトル・モレルは改訂版シモン役、《オテロ》ヤーゴ役初演を経て、ヴェルディの《ファルスタッフ》のタイトルロールも初演しました。





ヴェネツィアの話に戻りますと、なぜミラノでは《リゴレット》や《ラ・トラヴィアータ》のような演目が作れなかったのかという問題ですが、それはヴェネツィアはオーストリア軍の介入がミラノに比べて少なかったからです。ヴィスコンティの有名な映画《夏の嵐》冒頭にフェニーチェ歌劇場が出てきますが、あの事件は史実ではあの一年前に起こっているのであれは映画であり事実には反しています。自由な空気を呼吸していたヴェネツィアでヴェルディは彼の重要な友人になる人物に出会っています。それはフランチェスコ・マリア・ピアーヴェです。《リゴレット》《ラ・トラヴィアータ》《シモン・ボッカネグラ》の台本作家です。彼のヴェネツィアの仕事におけるトレードユニオンのパートナーであり、ヴェルディにとってヴェネツィアの色々な情報を教えてくれる友人でした。例えば《リゴレット》を書く時に、題材が検閲的に難しい内容を含んでいましたが、制作の時期のヴェルディの手紙に「ピアーヴェがうまく検閲を通す方法があると言っている」という記述があり、これはおそらくピアーヴェが美味しい甲殻類をオーストリア軍支配下にある警察に贈ってこの題材は歌劇場で上演可能であるというお墨付きを得ることが出来る、などの類の解決法だったのではないかと想像します。オーストリアの支配者たちとヴェネツィアの料理に関する面白いエピソードは他にもありますので。ヴェルディもヴェネツィアの食には大いに関心があったのですが、残念ながら《アッティラ》の時期にあまり新鮮ではない魚を食べた事が原因ではないかと思われるのですがそれで重病になってしまい、ヴェルディが死んでしまったらしいという当時の間違ったニュースの元になったくらいです。

これらのヴェネツィアとの大変実りの多い時期を経た後に、1855年にはパリの《ドン・カルロス》、サンクトペテルブルグの《運命の力》などを経て、ついにイタリアは統一国家となります。しかしヴェネツィアはその中にはまだ含まれませんでした。実際、今でもヴェネツィアでは「我々はヴェネツィアがイタリアに参加した1866年に統一国家記念を祝うべきだ」と言う人もあるくらいです。





次はこの時期のイタリアの歌劇場事情をより経営面から説明したいと思います。イタリアが統一された時から歌劇場の事情は大きく変わってしまいました。それぞれ独立した首都を代表する歌劇場だったナポリ、フィレンツェ、ローマ、その他沢山のイタリアの歌劇場は、国家統一の後は、規模の違いこそあれ各市(コムーネ)に所属する事になったのです。つまり、一国を代表する劇場ではなく、イタリア王国に沢山ある一都市の歌劇場になったわけです。

その結果、各地の劇場は軒並み危機に陥りました。経営資金も減額しましたし、国自体にも経済危機の時代が到来します。19世紀末に向かってイタリアはこの地が見舞われた最も酷い貧困の時代の一つを経験したのです。フェニーチェ歌劇場もイタリア統一に参加するまでの6〜7年間、具体的に言いますと1859年から1866年までは閉鎖に追い込まれていました。1866年の《仮面舞踏会》で再オープンするまで公演がまったくない年月があったのです。

その時にミラノは産業都市でしたからスカラ座は資金的に当時のイタリアの歌劇場の中でもっとも恵まれた状態にありました。このような大掛かりな企画である《オテロ》の初演は当事スカラ座以外に可能な場所は無かったでしょう。しかしフェニーチェ歌劇場は《オテロ》のスカラ座初演の後、イタリアのどこの歌劇場より早くスカラ座のわずか3ヶ月後に上演しました。オテロ役は伝説的なテノール、フランチェスコ・タマーニョ、ヤーゴ役はヴィクトル・モレルという初演とほぼ同じキャストで、指揮も初演と同じフランコ・ファッチョ、彼は作曲家であり、指揮者、それも彼はおそらく指揮者という役柄が生まれた後の最初の偉大な指揮者でした。




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ここでヴェネツィアの我々が大変名誉に思っていることをご紹介しましょう。それは実に数ページのことに過ぎないのですが。ミラノ初演の時から《オテロ》は大変に大きな宣伝活動がおこなわれました。音楽出版社リコルディはこのオペラを知らしめるために初演の3、4ヶ月も前から歌とピアノ版の《オテロ》の楽譜を出版していました。ヴェルディは《オテロ》を書くために16年の歳月を費やしたのにもかかわらず、ミラノでこのオペラが初演されるとその中に満足がいかない場所を発見します。そして初演の後にリコルディに手紙を書きます。ちなみにこれは昨年フェニーチェ歌劇場で今回の来日公演の《オテロ》を上演していた頃にちょうど発見された事実なのです。ヴェルディは「第三幕のフィナーレを書き直したものを送ります。ヴェネツィアではこのヴァージョンを上演させて下さい。」そして「ファッチョにはこの版のことを誰にも言わないように伝えて下さい。誰も気がつかないでしょうし、誰かが私が書き直しをした事を知ると、私がこのオペラに満足していないからだと言うでしょうから。」作曲家が自分の作品に満足していないとなるとマーケティングに差し障りますからね。「誰にも気づかれないようにパート譜を変えて、今後は常にこのヴァージョンを演奏するように。」、とヴェルディはリコルディに指示をしています。

現在はインターネット上で簡単にどちらの版も見ることが出来ますので皆さんも機会があればぜひ見比べて頂きたいですが、ドラマツルギー的には変更はあまり加えられておらず、手を入れたのはオーケストレイションです。オーケストラが初演版では重かったのをより躍動的に書き直して第三幕終わりの苦悩の表現を強調しています。偉大なる巨匠ヴェルディにおける小さい職人的な手直しですが、その作業が行われ、ヴェネツィアが物語の重要要素となっているこのオペラのヴェネツィア上演版が《オテロ》上演における現行版になったわけです。


もう一つはこれほど重要ではありませんが、いかにヴェルディがどんな細かい点まで見逃さなかったかを示すエピソードです。それは自分の作品を世界に問うために常にもっとも完璧な状態であることを望んでいたヴェルディの姿です。それは第四幕のデズデーモナがアヴェマリアを唱えた後でオテロが来る迄の時間の経過を示すコントラバスによるソロ・パートについてです。ヴェルディはスカラ座の初演時にこの場所のコントラバス奏者達の演奏について非常に不満でした。そしてその解決のために何か出来る事はないか?と考えたのですね。非常に難しい部分ですから。ヴェルディはリコルディにコントラバスのこの部分のパート譜を、ロンドンのボッテジーニに送るように指示しました。ボッテジーニは《アイーダ》を初演した指揮者であり、作曲家でもありましたが、彼は特に大変優れたコントラバス奏者でした。彼はコントラバスのパガニーニと呼ばれていた人です。コントラバスでパガニーニのカプリッチョを演奏出来たらしいのです。コントラバスの名人だったのです。ヴェルディは彼にパート譜を送り、弓遣いと指遣いを書いてもらったのです。これも後まで残り、今でもコントラバスはこの部分をボッテジーニの指遣いで弾いています。フェニーチェ歌劇場のコントラバス奏者はこの指遣いで初めて弾き、ヴェルディはそれをスカラ座の奏者が弾いたものより良い、と判断したのです。





これらのエピソードはいかにヴェルディが自分が書いたディーテールに注意深かったか、総譜のどの音符も、どの言葉に対しても注意深く疎かにしなかったかを示しています。それだけでなく、この作品とヴェネツィアとの関わりについても音符の中から探すことが出来ます。ヴェネツィアとの関係でもっとも説明が不要なのは、物語の背景として使われているという事実だと思いますが、その他の作曲上のエピソードからもヴェルディがヴェネツィアという都市に捧げた尊敬と、彼とこの都市との結びつきがわかると思います。この偉大なる文化都市としてのヴェネツィアに。ヴェルディは文化的な意味でナポリを大変尊重しており、《イル・トロヴァトーレ》の台本を書いたサルヴァトーレ・カンマラーノを尊敬していたのも、カンマラーノがナポリ派の文化の潮流の中にあった人だったからですが、ヴェネツィアに対しても同じ思いを持っていました。何世紀にも渡るヴェネツィアの文化を尊重していました。

具体的な場面でヴェネツィアを想起させるものが多くあります。例えば冒頭の嵐の場面です。《オテロ》の嵐の場面の表現は全ての楽器と合唱団の声を限界まで使った大変にリアリスティックで印象的な音楽です。調性を判定する間もなく目まぐるしく変わっていく音はまさに嵐の表現に相応しく、海岸で船乗りたちの身を案ずる妻や家族たちは、船の無事帰還を祈っていますがこれらの船はトルコとの戦いから戻って来た船でもあるわけです。この嵐の場面のような表現をなし得た作曲家は多くないでしょう。

そして第二幕の児童合唱団が参加するお祭りの場面にも注目して頂きたいと思います。ここにデズデーモナに百合の花を捧げる合唱曲がありますが、これもギリシャを訪れたことがある方はお分かりかも知れませんが、台本も音楽も現地の民衆の祭りの内容を模しています。土地の家族達がデズデーモナに捧げものをする場面ですね。今回の私共のプロダクションはかなり忠実にこのような民衆の祭りにおける行列の風景などを描いています。この演出では船乗りたちが聖母像を舟の櫂に乗せて運んでいますが、最後にこの櫂を捧げるジェスチャーをします。これは船乗りにとっては一番の尊敬の意味ですね。この風景はおそらくギリシャにおけるヴェネツィア支配の時代の風俗をとても良く反映しており、それは合唱団がこの場面で繰り返す単純な美しい旋律の伴奏に使われているギターとマンドリンという楽器にも示されている通り、民謡的な要素が全て取り入れられているのです。ヴェルディはギリシャに旅行したことはありませんので、私は彼の友人マリア・ピアーヴェがヴェルディをムラーノ島に魚料理の夕食に誘い、そこで見せた風景にこれに似たものがあったのではないかと想像して楽しんでおります。


それから、第四幕の冒頭にあるイングリッシュ・ホルンのソロのことについてです。ヴェルディが書いた音楽の中でもっとも東洋的なニュアンスを帯びているのがここの部分だと思います。そしてヴェネツィアの音楽文化に対する一番のオマージュは第三幕のフィナーレです。ヴェネツィアからの使者を迎えてトランペットが鳴らされますが、楽譜にはこの音は幾つもの違った場所から鳴らされるようにと指示があります。ここはサン・マルコ寺院のジョヴァンニ・ガブリエーリによるトランペットが呼びかわす音楽を思い起こさせます。ヴェネツィアのようにその長い年月の間、音楽都市としての重要さを保った都市は他にありませんでした。勿論これは西洋音楽という意味でありまして、我々はアジアの国々において、より古い音楽の歴史を持つ国々があることを知っていますが。ヴェルディのヴェネツィアに対するオマージュは7年後に《オテロ》が1894年にパリでフランス語版が初演された時により強調されることになりました。オペラ座では全てのオペラはフランス語で歌われねばなりませんし、バレエ曲が挿入されなくてはなりません。ヴェルディが書いたバレエ曲は四つの部分に別れていますが、これはヴェルディの書いた曲の中でシンフォニックな意味でもっとも力をいれて書かれたモダンなものです。彼は音楽のテーマを探し発展させ、各曲にタイトルを付けました。その中の一つは「ギリシャの歌」、一つは「アラーへの祈願」、そしてテンポの早いムラーノ島のダンス音楽は「ラ・ムラネーゼ」です。これはヴェルディがヴェネツィアの音楽文化へのオマージュをはっきり示したもう一つの例です。


《オテロ》は初演後すぐに大きな成功を収めました。パリ初演の前にすでにヨーロッパの各地でドイツ語訳で上演されました。ヴェルディの熱望はイタリアのために何かをすることでありました。イタリア文化を広めながら世界に届くことでした。彼は《オテロ》によってそれを成し遂げたのです。当事届けることが可能だった範囲の最大限まで。数年後には《オテロ》はニューヨークのメトロポリタン歌劇場や南米でも上演されました。ちなみにタマーニョの後でこのオペラを歌ったテノール歌手たちは南米出身でした。《オテロ》は観客にも批評家にも大きな成功を収めました。《アイーダ》から《オテロ》までこのように長い時間が空いたのはヴェルディがワーグナーとの比較を恐れワーグナーには勝てないと思ったからでは、と言われますが、まさにそのドイツの新聞がこの《オテロ》を絶賛したのです。




これらの例でお伝えしたかったのは、ヴェルディの人間としての偉大さです。ヴェルディは音楽を手段と捉えていました。彼は音楽を通してイタリア統一に貢献し、音楽文化がイタリアと世界に貢献し、イタリアが世界と良い関係を築く助けになることを望んでいました。統一国家イタリアを代表する二人の偉大な人物は、なぜか二人とも音楽家で二人ともパルマ出身です。ジュゼッペ・ヴェルディとアルトゥーロ・トスカニーニ。ヴェルディは国の芸術を創造しました。私の大学の文学の教授はこう言っていました。イタリアは国文学を持たない。ドイツのゲーテ、フランスのユゴーに当たるものはイタリアではマンゾーニやアルフィエーリではない、ベッリーニやドニゼッティ、ヴェルディそしてプッチーニだと。もう一人はこれらの芸術を演奏する人間です。その二人をつなぐのが《オテロ》だったのは奇遇です。偉大なトスカニーニは指揮者になる前にスカラ座のオーケストラでチェロを弾いていました。《オテロ》が初演された時に彼はそこで演奏していたのです。そのこともありトスカニーニはファシストの時代に迫害されていましたが、ファシスト政権から大変尊敬もされていました。独裁者は音楽に大きな関心を払うものです。それはまさに音楽が人々の心まで届くものだからでしょう。イタリア国家統一以来今日に至るまで、文学、絵画、スポーツ、そして政治の世界からもジュゼッペ・ヴェルディほど偉大で世界に届く人物は輩出しなかったのではないかと思います。今日はご静聴ありがとうございました。

(通訳・書き起こし:井内美香)






posted by フェニーチェ2013 at 04:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月20日

ま・た・あ・う・ひ・ま・で




スタッフMでございます。ついにお別れの時が来てしまいました…(涙)。










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オーケストラ、日伊のテクニカル・スタッフも舞台に乗った昨晩のカーテンコール。写真:Arianna Tae Cimarosti






フェニーチェ歌劇場の来日公演、終わってしまいました。本当に多くの方にご来場いただき関係者一同、心より感謝しております。




オペラの舞台が出来上がるまでには大勢の人たちが関わっています。特に引越公演ではイタリアと日本のメンバーが力を合わせて舞台を作り上げるので、毎日一緒に仕事をするテクニカル・スタッフの皆さんは交流も深まるようです。今日の最終公演ではあちこちのセクションでお別れに記念撮影をする姿が見られました。横からお邪魔していくつかブログ用のバックステージ写真を撮らせてもらいましたのでご紹介します。





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まずはオテロ様、ご出演前にどど〜んと撮影させて頂きました。迫力があってちょっと怖かったです…


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リアさんはいつもにこやかな笑顔で。


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TOKYO FM少年合唱団の皆さんと記念写真を撮り終えたマエストロ・チョン。「ブラヴィッシミ!」と子供達を褒めていました。


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フェニーチェ歌劇場芸術監督オルトンビーナ氏(右端)、マエストロ、そしてテクニカルの皆さんで記念撮影。


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《オテロ》脇役の皆さんを撮影していたら彼らと仲がいいガッロさんが楽屋に来ました。一緒にパチリ。


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今回かなり活躍した不気味なブラック・マン達。実は男性3名と女性1名のイタリアから来た俳優さんたちです。


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何枚か撮っていたら襲われそうになりました…


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日本側の舞台責任者、プロダクション・マネージャーの佐藤公紀さんと、フェニーチェ歌劇場の大道具主任マッシミリアーノさん。2001年の引越公演のときから一緒に仕事をされています。


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こちらは小道具チーム。《オテロ》に出てくる”サン・マルコの獅子”の旗は今でもヴェネツィア人の心の中にある彼らの大切なシンボルなのだそうです。


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大道具チーム。本番前なので全体の一部の皆さんです。実際はもっと大人数の作業となります。


s-照明.jpg
そして最後が照明チーム。ムーヴィング・ライトを使用した洗練された照明を日伊の協力で作り上げました。






以上、ご紹介出来たのは一部の方達で、実際は他にも日本人助演の皆さん、衣裳、メーク、音楽スタッフ、音響、楽器係、通訳、事務方等大勢の人が関わっています。今回の引越公演はオペラ一演目にコンサート2種類と、これまでのフェニーチェ歌劇場の来日公演よりも規模が小さいものでした。でも、ヴェルディの《オテロ》という演目のおかげでしょうか、大変充実したツアーになったのではないかと思います。













最後に、ブログをご覧頂いた皆様、どうもありがとうございました。





フェニーチェ歌劇場の皆にまた会えますように! Arrivederci e a presto!!!!!!!!


















posted by フェニーチェ2013 at 07:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

4月18日の特別コンサート



4月18日の特別コンサートにご来場くださった皆様、どうもありがとうございましたexclamation×2 名作オペラの魂を表現するコンサートになったのでは、と思います…





特別コンサートのキャストと曲目を以下にアップします。






フェニーチェ歌劇場 特別コンサート
《リゴレット》《椿姫》から抜粋(演奏会形式)


2013年4月18日(木) 19:00開演 東京文化会館・大ホール

指揮:チョン・ミョンフン Myung-Whun Chung

出演:
《リゴレット》
ジルダ:エカテリーナ・バカノワ Ekaterina Bakanova
マントヴァ公:シャルヴァ・ムケリア Shalva Mukeria
リゴレット:ジュリアン・キム Julian Kim
マッダレーナ:エリザベッタ・マルトラーナ Elisabetta Martorana

《椿姫》
ヴィオレッタ:エカテリーナ・バカノワ Ekaterina Bakanova
アルフレード・ジェルモン:シャルヴァ・ムケリア Shalva Mukeria
ジョルジョ・ジェルモン:ジュリアン・キム Julian Kim
フローラ:クラウディア・エルネスタ・クラリチ Claudia Ernesta Clarich
アンニーナ:サブリーナ・オリアーナ・マッツァムート Sabrina Oriana Mazzamuto
ガストン子爵:ディオニージ・ドストゥーニ Dionigi D’Ostuni
ドゥフォール男爵:エマヌエーレ・ペドリーニ Emanuele Pedrini
グレンヴィル医師:ニコラ・ナレッソ Nicola Nalesso
ドビニー侯爵:エミリアーノ・エスポージト Emiliano Esposito
ジュセッペ:ロベルト・メネガッツォ Roberto Menegazzo
召使い:ジュゼッペ・アッコッラ Giuseppe Accolla
使いの者:ジャンパオロ・バルディンGiampaolo Baldin

フェニーチェ歌劇場管弦楽団・合唱団 Orchestra e Coro del Teatro La Fenice
合唱指揮:クラウディオ・マリノ・モレッティClaudio Marino Moretti







曲目

ヴェルディ《リゴレット》より
Giuseppe Verdi:Rigoletto


前奏曲
atto primo Preludio

第1幕 二重唱〈愛は心の太陽だ〉(ジルダ、マントヴァ公)
atto primo “È il sol dell’anima” (duetto Gilda e Duca)

第1幕 アリア〈慕わしき御名〉(ジルダ)
atto primo “Caro nome” (Gilda)

第1幕 合唱〈静かに、静かに〉
atto primo “Zitti zitti” (coro)

第2幕 アリア〈彼女の涙が見えるようだ〉(マントヴァ公)
atto secondo “Parmi veder le lagrime” (Duca)

第2幕 〈殿、殿!〉〈何だ?〉(合唱)
atto secondo “Duca, Duca - Ebben?” (coro)

第2幕 カバレッタ〈強い愛の力が私に命ずる〉(マントヴァ公、合唱)
atto secondo “Possente amor mi chiama” (cabaletta Duca, coro)

第3幕 カンツォーネ〈女心の唄〉(マントヴァ公)
atto terzo “La donna è mobile” (canzone Duca)

第3幕 四重唱〈いつかお前に会ったような気がする〉(ジルダ、マッダレーナ、マントヴァ公、リゴレット)
atto terzo “Un dì, se ben rammentomi” (quartetto Gilda, Maddalena, Duca e Rigoletto)



-----------------------休憩------------------------------



ヴェルディ《椿姫》第2幕
Giuseppe Verdi:La Traviata, atto secondo


No.4 シェーナとアルフレードのアリア〈燃える想いを〉
N.4  Scena e Aria di Alfredo

No.5 シェーナとヴィオレッタとジェルモンの二重唱〈天使のように清らかな娘〉
N.5  Scena e Duetto di Violetta e Germont

No.6 ヴィオレッタのシェーナとジェルモンのアリア〈プロヴァンスの海と陸〉
N.6 Scena Violetta e Aria di Germont

No.7 第二幕フィナーレ
N.7 Finale Secondo








s-DSC01086.jpg
コンサートを終えたところでパチリ。左からバカノワさん、キムさん、ムケリアさん、マルトラーナさんです。






posted by フェニーチェ2013 at 04:17| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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